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中央式太極拳は南京中央国術館副館長【陳冸嶺老師】により編纂された南京中央国術館正宗太極拳
を起源とする、古式総合太極拳です。
気の武術の奥義は、これ即ち 健康長寿の奥義。
今日、太極拳の医学的健康効果は多くの医学論文で実証されてます。
先ずは気を感じる事から始め、自身の免疫力、自然治癒力を高めましょう。

2015年9月6日日曜日

美しき太極拳女子を応援します-06 夏老け対策

秋になりました。

旧暦では当の昔に秋になってますし、来月の10/21には土用に入るので、それを過ぎるともう冬です。いちおう世間一般の流れに沿って御挨拶しておきます(笑)。

いろいろと美容、健康、自分磨きの美辞麗句を見かける季節になりました。夏はどちらかといえば肌を出す季節なので「美容」がイチオシでしたが、秋はどちらかといえばケアですね。



夏のお疲れ肌とか日焼けの後始末とか、


エアコンによる乾燥や冷え、日焼けなどで夏に蓄積された肌のダメージは、実年齢より老けてみられることを指す「夏老け」をもたらす。

出典「『温感美容』で夏の肌ケア エステローラーなど市場拡大」:イザ!

「夏老け」ですか。コワいですね~。







夏肌疲れだけでなく、体力などの落ち込みも秋や冬に持ち越さないための様々なフィットネスやプログラムがあります。各所でマラソン大会などもあり、いろいろと挑戦しがいのある季節です。


基本的に太極拳は力でも何でも「出すこと」がコンセプトなので、とうぜん、気でも老廃物でも疲れでもストレスでも出し切ることができます。 とにかく溜め込まない。人間は深く吐くように云われてもまず吸い込んでしまいますよね。太極拳はそれでさえも先ず息を吐く事、吐き切ることから始まるのです。


肺から息を出す。腎臓から不要な水分や老廃物を出す。腸からも搾りかすをどんどん出す。心臓は血を体中に押し出す。肌もどんどん汗を出す。人間、取り込むところは口と鼻だけですが、出すところはたくさんあります。このように呼吸を基本として「体の外に出す流れ」を身に着けると新陳代謝が促進されます。また、それこそあちこちでもらってくる(というより取り込んでしまう)不要な「気」を排出する狙いもあります。


一方で、心の方です。





太極拳のゆっくりとした動きは、姿勢(重心、軸)の変化を自分の意識で確認しながら動くことが基本のひとつにあるからです。そのゆっくりした意識的な動作が脳を刺激します。
変な言い方をすると、とても「忙しい」のです。

手足腰が同時に動き始めつつ、目線を水平に保ち、肌の感覚で空気を感じ、身体の陰陽を意識しつつ呼吸も忘れないで云々・・・。こんな感じです。

こういった感覚の刺激が常に脳に伝わるという点が、ジョギングなどほかのフィットネスにはない特徴です。ブログでも何度も書いていると思いますが、太極拳の動作は呼吸との関連が深く、一定のリズムで深い呼吸をともないながら動くことで、脳内のセロトニン神経を活性化する効果があるといわれています。セロトニンにはストレスを減らし、心の安定を保つ作用があり、脳内のセロトニン環境を整えることで、不安を解消し精神を安定させる狙いがあります。


こうして心身ともにリフレッシュを図ることができます。
太極拳は忙しいと書きましたが、もちろん初心者には段階をおって指導いたしますのでご心配なく。

多くの方が太極拳を始めて、自分の身体の動かなさに戸惑います。これだけゆっくりなのに、どうして?と。それは動き方が一般的なスポーツとは異なる上、リラックスして感覚重視で動くためです。
普通は運動すれば体は興奮状態になります。太極拳は心身ともに興奮状態になってはいけないのです。それは太極拳に限らず武術全般がそうです。自分は「明鏡止水」のごとくの心持であらねば、どんな外敵・危難から我が身を守ることなどできないからです。


出すことも動くことも感覚。動きのある瞑想。太極拳は他の誰でもない自分自身の身体との対話なのです。








自分自身との対話は、まさに自分を絶対の「心の拠り所」にできることにつながります。他への依存でもなし、他の目を気にすることもない。他を制する前に自分自身を知ることが、武術でも健康でも最重要になるからです。




2015年9月1日火曜日

馬齢を重ねる



「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」

謙虚な態度の大切さを謳った言葉でありますが、本来的に考えるといろいろと面白いですね。

稲はいきなり実っていません。芽が出て、成長して、花が咲いて、稲穂になって、その重みで垂れるのです。
ということは、若いうちは頭を垂れていなかったことになります。
若いうちから謙虚であることは大事ですが、多少の傲慢さは許容されるということでしょう。
あるいは傲慢さやおごり高ぶりによって痛い目に遭い、その経験が多ければ多いほどそれらは自分の財産になる、
ということでしょう。

そうやって年を重ねながら貴重な経験をした後で、謙虚になるくらいな気持ちでいようということでしょう。


また、「頭を垂れる」ということですが、ひとつ気を付けたいのが、
稲穂は自らの意思を持って頭を下げているのではないという事です。

物理的にも、実った稲穂の重みで垂れているのです。

自分自身が意識をしながら謙虚になっているのではなく、ごくごく自然に、
ごく当たり前に、謙虚な生き方になっているよう(稲穂が実る)にも思えます。

「謙虚に生きようとする」のではなく、自分自身の実りを実感し、
それを受け入れている人はことさら謙虚に「生きよう!」としなくても、
自然に謙虚になっていくということでしょう。



そう考えると、これはなかなか難しい(笑)。

自我と真我の話になりそうですね。だとしたら、世の中のご無体なふるまいのご老人に腹を立てても仕方のない事です。

だって、そういう人たちは「謙虚」という稲穂が実らなかったのですから。



単刀直入に云いますと、傲慢なご老人も増えました。
電車の駆け込みなんてのはお手の物。降りてくる人よりも早く乗り、いち早く席を確保する。あの時の身のこなしだけは異常に素早い。太極拳も顔負けです(笑)。
道路は堂々と横断する。運転していて「このタイミングで横切るかっ!?」と驚かされることもしばしば。もちろん、世間における「高速道路逆走」の大半が高齢者なのは云うに及ばず。

ひたすら孫を甘やかす。叱ることもできません。「おばあちゃん子は三文安い」という言葉もありますが、意味を今一度良く考えてもらいたいものです。あなたの「我よし」な自我欲求が子供の未来と精神的成長をつぶします。


そして先日。教室にいきなりご老人が闖入してきました。片手に紙切れをもって 何やらわめいています。どうやら会場となる部屋が分からなくて、うちの教室に飛び込んできたようです。受付の人がどうたら、何々が何々でくぁwせdrftgyふじこlp・・・・完全に迷子です(笑)。先生も呆気にとられています。なんでこちらが文句や愚痴を聞かねばならないのですか?

仕方がないのでそこの部屋まで案内してあげましたが、もちろんお礼の一つもなく。
まさに「傲慢」。

まして、ここは借りているとはいえ「教室」が開講されているのです。そこにいきなり挨拶もなく入り、童のごとく不明瞭な発言を繰り返すとは非礼にもほどがあります。
 

ひさびさにご無体なご老人を目の当たりにし、これで「年寄を敬え」という方が無理というものでしょう。

私よりも長く生きているはずなのに、今までの人生で何を学んできたのか?

まさに「馬齢を重ねる」ものだと皮肉りたいですね。



幸いにして、中央式にはこのような方がおられません。なのでどうしても比較してしまいます。



中央式太極拳は「お手軽楽々健康体操」ではありません。
文字通り「功夫」であり、日本的にいえば「行」なのです。

健康の回復や身体操作の上達のためには「素直さ」と「謙虚さ」が嫌でも必要になってくるのです。









ただ、私、「実るほど・・・」の言葉があまり好きじゃないんですよね。

理由をいいますと、アレなんですよ。



「火垂るの墓」で有名な「西宮のおばちゃん」が言ったセリフでもありまして、
あのおばちゃんの顔がちらつくので、けっこうイヤになるのです(苦笑)。







こういう画像も貼られてました



先日も同作品の放送がありましたが、ネット掲示板では恒例の「西宮のおばちゃん論争」が
繰り広げていました。「西宮は悪魔の棲む街」とまで言われてましたが、
今回、多かった論としては「正論だがムカつく」です。



「西宮のおばちゃん」に関しては、人間の、状況におけるいろんな側面を凝縮した、
ある意味において傑出したキャラクターとも言える点はすごく評価しています。


2015年8月25日火曜日

悔いのない人生は味気ない

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映画「グランドマスター」
数ヶ月前の映画になりますが、私たちの武術で2種類も重なっているので、
武術格闘映画のつもりで見に行きました。
映画では八卦掌(はっけしょう)、形意拳(けいいけん)と太極拳ではなく、
詠春拳(えいしゅんけん)でしたが、興味深く鑑賞できました。
そして、2回も見ました。
チャンツィーの華麗な八卦掌もさることながら、心が折れた彼女が、
強がって言った言葉「悔いのない人生は味気ない」に、心を打ち砕かれました。

2回目は余裕で見ましたが、ボロボロ泣いて観ている女性がいました。
チャンツィーが毛皮コートを着て、弟子を連れて登場するシーンもかっこよすぎ。

この言葉が、ずっと残っています。・・・今頃書くなと非難浴びそうです。


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A先生の投稿をこちらにも転載しました。(A先生語録)


「悔いのない人生は味気ない」

深みのある言葉です。


失敗をし、損をつかみ、後悔にまみれ、傷つき、上手くいかないことがある、人生。

普通ならば、後悔の無いように、悔いの無いように・・・と云う人も多いでしょう。


ところが。
これが行き過ぎると「後悔の無い事」に「執着」が芽生えてしまうのです。心が囚われてしまうのです。何事においても後悔しないこと、悔いのないことばかりをめざし、またそういう結果を強く望んでしまうのです。

後悔しないがいつのまにか失敗しない、損をしない、そういうことにすり替わってしまっている気がします。得ることばかりに気が行って、「後悔しない」というのは得られなかった時の言い訳に使われてしまっています。

本来的には「後悔のないこと」とは物事に執着せず、いかなる結果であっても

「それも仕方がない」くらいの心構え。

これはしかし、自分の逃げる心やあきらめではありません。逆に、武士のような潔さと、思い切り、真剣さ、時には自分の命懸けを内に秘めた「仕方がない」なのです。


だからこそ「悔いのない人生はつまらない」のです。




これは「本来無一物」という言葉に近いものを感じます。
それは死を基準に人生を考えているのです。

ところが現代の多くの場合は、長生きの幸か不幸か、「老後」に基準が置かれた価値判断、行動がなされています。

老後は今より体力は衰え、記憶力も弱くなり、仕事も失うかもしれません。
老後のために、ある程度の貯金が必要になるのも間違いありません。一見すると、至極まっとうな考え方ですが、「老後」に照準を合わせると、ほぼ必ず、保守的な生き方になります。



危険を冒さない代わりに貯金には必死になります。
そして大なり小なり冒険をしなくなります。冒険をしなくなるため、同じ毎日の繰り返しになり、刺激も感動も少なくなります。出不精になり、さらに無難な選択ばかりを選ぶようになります。
より老化が加速するのです。

病気の話と悪口、孫の話で毎日が終わります。




誰でも、いつか、どこかで死を迎えます。

「悔いのない人生は味気ない」とは、潔さやある種の深い覚悟を内包したすばらしい文言だと思います。







よしあしハ 目鼻口からでるものか