「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」
謙虚な態度の大切さを謳った言葉でありますが、本来的に考えるといろいろと面白いですね。
稲はいきなり実っていません。芽が出て、成長して、花が咲いて、稲穂になって、その重みで垂れるのです。
ということは、若いうちは頭を垂れていなかったことになります。
若いうちから謙虚であることは大事ですが、多少の傲慢さは許容されるということでしょう。
あるいは傲慢さやおごり高ぶりによって痛い目に遭い、その経験が多ければ多いほどそれらは自分の財産になる、
ということでしょう。
そうやって年を重ねながら貴重な経験をした後で、謙虚になるくらいな気持ちでいようということでしょう。
また、「頭を垂れる」ということですが、ひとつ気を付けたいのが、
稲穂は自らの意思を持って頭を下げているのではないという事です。
物理的にも、実った稲穂の重みで垂れているのです。
自分自身が意識をしながら謙虚になっているのではなく、ごくごく自然に、
ごく当たり前に、謙虚な生き方になっているよう(稲穂が実る)にも思えます。
「謙虚に生きようとする」のではなく、自分自身の実りを実感し、
それを受け入れている人はことさら謙虚に「生きよう!」としなくても、
自然に謙虚になっていくということでしょう。
そう考えると、これはなかなか難しい(笑)。
自我と真我の話になりそうですね。だとしたら、世の中のご無体なふるまいのご老人に腹を立てても仕方のない事です。
だって、そういう人たちは「謙虚」という稲穂が実らなかったのですから。
単刀直入に云いますと、傲慢なご老人も増えました。
電車の駆け込みなんてのはお手の物。降りてくる人よりも早く乗り、いち早く席を確保する。あの時の身のこなしだけは異常に素早い。太極拳も顔負けです(笑)。
道路は堂々と横断する。運転していて「このタイミングで横切るかっ!?」と驚かされることもしばしば。もちろん、世間における「高速道路逆走」の大半が高齢者なのは云うに及ばず。
ひたすら孫を甘やかす。叱ることもできません。「おばあちゃん子は三文安い」という言葉もありますが、意味を今一度良く考えてもらいたいものです。あなたの「我よし」な自我欲求が子供の未来と精神的成長をつぶします。
そして先日。教室にいきなりご老人が闖入してきました。片手に紙切れをもって 何やらわめいています。どうやら会場となる部屋が分からなくて、うちの教室に飛び込んできたようです。受付の人がどうたら、何々が何々でくぁwせdrftgyふじこlp・・・・完全に迷子です(笑)。先生も呆気にとられています。なんでこちらが文句や愚痴を聞かねばならないのですか?
仕方がないのでそこの部屋まで案内してあげましたが、もちろんお礼の一つもなく。
まさに「傲慢」。
まして、ここは借りているとはいえ「教室」が開講されているのです。そこにいきなり挨拶もなく入り、童のごとく不明瞭な発言を繰り返すとは非礼にもほどがあります。
ひさびさにご無体なご老人を目の当たりにし、これで「年寄を敬え」という方が無理というものでしょう。
私よりも長く生きているはずなのに、今までの人生で何を学んできたのか?
まさに「馬齢を重ねる」ものだと皮肉りたいですね。
幸いにして、中央式にはこのような方がおられません。なのでどうしても比較してしまいます。
中央式太極拳は「お手軽楽々健康体操」ではありません。
文字通り「功夫」であり、日本的にいえば「行」なのです。
健康の回復や身体操作の上達のためには「素直さ」と「謙虚さ」が嫌でも必要になってくるのです。
ただ、私、「実るほど・・・」の言葉があまり好きじゃないんですよね。
理由をいいますと、アレなんですよ。
「火垂るの墓」で有名な「西宮のおばちゃん」が言ったセリフでもありまして、
あのおばちゃんの顔がちらつくので、けっこうイヤになるのです(苦笑)。
こういう画像も貼られてました
先日も同作品の放送がありましたが、ネット掲示板では恒例の「西宮のおばちゃん論争」が
繰り広げていました。「西宮は悪魔の棲む街」とまで言われてましたが、
今回、多かった論としては「正論だがムカつく」です。
「西宮のおばちゃん」に関しては、人間の、状況におけるいろんな側面を凝縮した、
ある意味において傑出したキャラクターとも言える点はすごく評価しています。