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中央式太極拳は南京中央国術館副館長【陳冸嶺老師】により編纂された南京中央国術館正宗太極拳
を起源とする、古式総合太極拳です。
気の武術の奥義は、これ即ち 健康長寿の奥義。
今日、太極拳の医学的健康効果は多くの医学論文で実証されてます。
先ずは気を感じる事から始め、自身の免疫力、自然治癒力を高めましょう。

2015年8月25日火曜日

悔いのない人生は味気ない

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映画「グランドマスター」
数ヶ月前の映画になりますが、私たちの武術で2種類も重なっているので、
武術格闘映画のつもりで見に行きました。
映画では八卦掌(はっけしょう)、形意拳(けいいけん)と太極拳ではなく、
詠春拳(えいしゅんけん)でしたが、興味深く鑑賞できました。
そして、2回も見ました。
チャンツィーの華麗な八卦掌もさることながら、心が折れた彼女が、
強がって言った言葉「悔いのない人生は味気ない」に、心を打ち砕かれました。

2回目は余裕で見ましたが、ボロボロ泣いて観ている女性がいました。
チャンツィーが毛皮コートを着て、弟子を連れて登場するシーンもかっこよすぎ。

この言葉が、ずっと残っています。・・・今頃書くなと非難浴びそうです。


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A先生の投稿をこちらにも転載しました。(A先生語録)


「悔いのない人生は味気ない」

深みのある言葉です。


失敗をし、損をつかみ、後悔にまみれ、傷つき、上手くいかないことがある、人生。

普通ならば、後悔の無いように、悔いの無いように・・・と云う人も多いでしょう。


ところが。
これが行き過ぎると「後悔の無い事」に「執着」が芽生えてしまうのです。心が囚われてしまうのです。何事においても後悔しないこと、悔いのないことばかりをめざし、またそういう結果を強く望んでしまうのです。

後悔しないがいつのまにか失敗しない、損をしない、そういうことにすり替わってしまっている気がします。得ることばかりに気が行って、「後悔しない」というのは得られなかった時の言い訳に使われてしまっています。

本来的には「後悔のないこと」とは物事に執着せず、いかなる結果であっても

「それも仕方がない」くらいの心構え。

これはしかし、自分の逃げる心やあきらめではありません。逆に、武士のような潔さと、思い切り、真剣さ、時には自分の命懸けを内に秘めた「仕方がない」なのです。


だからこそ「悔いのない人生はつまらない」のです。




これは「本来無一物」という言葉に近いものを感じます。
それは死を基準に人生を考えているのです。

ところが現代の多くの場合は、長生きの幸か不幸か、「老後」に基準が置かれた価値判断、行動がなされています。

老後は今より体力は衰え、記憶力も弱くなり、仕事も失うかもしれません。
老後のために、ある程度の貯金が必要になるのも間違いありません。一見すると、至極まっとうな考え方ですが、「老後」に照準を合わせると、ほぼ必ず、保守的な生き方になります。



危険を冒さない代わりに貯金には必死になります。
そして大なり小なり冒険をしなくなります。冒険をしなくなるため、同じ毎日の繰り返しになり、刺激も感動も少なくなります。出不精になり、さらに無難な選択ばかりを選ぶようになります。
より老化が加速するのです。

病気の話と悪口、孫の話で毎日が終わります。




誰でも、いつか、どこかで死を迎えます。

「悔いのない人生は味気ない」とは、潔さやある種の深い覚悟を内包したすばらしい文言だと思います。







よしあしハ 目鼻口からでるものか

2015年8月13日木曜日

太極拳は三位一体の話

体と心と魂の駆け引きです。
まぁ、太極拳に限った話ではありませんが。


人間は今「現在」を生きます。そして現在は一瞬の内に過去になり、
生きる予定にある「未来」に至ります。


動物はこのような観念がありません。
そこが人と動物の違いであるといえますが、別に人間様がエライということはなく、
時間を知ったことで「経年劣化」をはじめとした盛者必衰・諸行無常の真っただ中で生きねばなりません。



今現在を生き、未来へ向かうその判断材料は「過去」ですが、心にあるのは現世の記憶だけです。

明日を考えるのは心です。
ところが体は今現在、この瞬間だけを考えます。

そして、魂だけが遙か遠い遠い過去と、そして(終末を含めた)未来をも視野に入れています。
でも、見えているものを教えてくれません。


まとめると、
心は現世の過去と明日。
魂は前世の過去(遥か遠い遠い過去)と未来。
体は今現在。

さて、「聖書」「仏教聖典」、そして「イスラム」でも愛を多く経験すれば
この世への輪廻は無くなるとあります。
仏教的にいえば「渇愛」の気付きですかね。
我が欲するところを知るというか、欲するためにわざわざ不足を生じさせる自我こそが云々・・・というやつで。

※ここでいう「愛」とは「LOVE」ではありません



体、つまり肉体は楽になること以外考えません。
それは今現在を考えて判断するからです。


美味いものを食すると体は喜びますが、将来、肥満や糖尿病になることなど考えなどしません。
異性と愉しいことをすると体は喜びますが、良くて「出来婚」。下手すりゃ不倫で破滅します。
まぁ、けっこうな業を背負ってしまいます。

「太極拳って思ったよりしんどい」なんて云う言葉はここから出てきます(笑)。

体は楽をしては長生きするようにできていないので、心が抑制するのです。
太極拳は体をいじめます。「もうこの動き方でいいぢゃん」と面倒くさくて投げ出す
体をいじめて教え込むのです。


体は愛を多く経験するためにあるので 楽をすると本来の機能を発揮しません。
しかし、体の機能(仕組み)はそんなことは意に解しません。 

「健康のために!」などと心は解かっているのですが、実体が無いので体に負けます。

多くの宗教で修行するのは その体の機能を理解し、節制・制御するために行われます。
武術の背景にも宗教ないし類似した教義、あるいは道義があるのは、そういった目的もあります。

ちなみに太極拳は道教です。



いつ来るか、いつ必要になるか わからない愛という実態の無いものを得るには
体の苦痛・欲望等をコントロールする必要があります。
お釈迦様ですら「色情」は消すものではなく「そこに置くもの」としているので、かなり強力です。

※色情は単に性欲だけに留まりません。良く見せよう、良く見られたい、そういった類も含みます。


ところが、肝心なところで楽をするために、機会を逸します。

「ああ、なんか続けていても効果ないし・・・」
「丹田なんかよくわからないものより、手先の型だけ教えてくれたらいい」

体の大勝利というわけです。





この、今現在と明日。そしてもっと先の未来。

「余生短い年寄だから」といって「逃げる」「言い訳」する人もいますが、
はたして「死」がゴールなのか?? 

何かにはたと気付くだけなら死ぬ一秒前でもできます。
しかしてどれほどの心を持っているか、ですね。


魂はジャッジだけなのだそうで、意見はしません。してくれません。
要するに良心や内在神のような存在で、特に働きかけることもありません。
ただ、感じることはできるそうです。



宗教的なお話になりますが、この魂というものは生まれ変わるタイミングと、
生まれる場所を選択するだけです。主審のようなものです。

魂は、時間が永遠であることを知っているので焦りません。 
いつかは必ず人は成仏(唯物的に云うなら成物www)するものだそうで。





太極拳は三位一体の話

体と心と魂の駆け引きです。
まぁ、太極拳に限った話ではありませんが。


人間は今「現在」を生きます。そして現在は一瞬の内に過去になり、
生きる予定にある「未来」に至ります。


動物はこのような観念がありません。
そこが人と動物の違いであるといえますが、別に人間様がエライということはなく、
時間を知ったことで「経年劣化」をはじめとした盛者必衰・諸行無常の真っただ中で生きねばなりません。



今現在を生き、未来へ向かうその判断材料は「過去」ですが、心にあるのは現世の記憶だけです。

明日を考えるのは心です。
ところが体は今現在、この瞬間だけを考えます。

そして、魂だけが遙か遠い遠い過去と、そして(終末を含めた)未来をも視野に入れています。
でも、見えているものを教えてくれません。


まとめると、
心は現世の過去と明日。
魂は前世の過去(遥か遠い遠い過去)と未来。
体は今現在。

さて、「聖書」「仏教聖典」、そして「イスラム」でも愛を多く経験すれば
この世への輪廻は無くなるとあります。
仏教的にいえば「渇愛」の気付きですかね。
我が欲するところを知るというか、欲するためにわざわざ不足を生じさせる自我こそが云々・・・というやつで。

※ここでいう「愛」とは「LOVE」ではありません



体、つまり肉体は楽になること以外考えません。
それは今現在を考えて判断するからです。


美味いものを食すると体は喜びますが、将来、肥満や糖尿病になることなど考えなどしません。
異性と愉しいことをすると体は喜びますが、良くて「出来婚」。下手すりゃ不倫で破滅します。
まぁ、けっこうな業を背負ってしまいます。

「太極拳って思ったよりしんどい」なんて云う言葉はここから出てきます(笑)。

体は楽をしては長生きするようにできていないので、心が抑制するのです。
太極拳は体をいじめます。「もうこの動き方でいいぢゃん」と面倒くさくて投げ出す
体をいじめて教え込むのです。


体は愛を多く経験するためにあるので 楽をすると本来の機能を発揮しません。
しかし、体の機能(仕組み)はそんなことは意に解しません。 

「健康のために!」などと心は解かっているのですが、実体が無いので体に負けます。

多くの宗教で修行するのは その体の機能を理解し、節制・制御するために行われます。
武術の背景にも宗教ないし類似した教義、あるいは道義があるのは、そういった目的もあります。

ちなみに太極拳は道教です。



いつ来るか、いつ必要になるか わからない愛という実態の無いものを得るには
体の苦痛・欲望等をコントロールする必要があります。
お釈迦様ですら「色情」は消すものではなく「そこに置くもの」としているので、かなり強力です。

※色情は単に性欲だけに留まりません。良く見せよう、良く見られたい、そういった類も含みます。


ところが、肝心なところで楽をするために、機会を逸します。

「ああ、なんか続けていても効果ないし・・・」
「丹田なんかよくわからないものより、手先の型だけ教えてくれたらいい」

体の大勝利というわけです。





この、今現在と明日。そしてもっと先の未来。

「余生短い年寄だから」といって「逃げる」「言い訳」する人もいますが、
はたして「死」がゴールなのか?? 

何かにはたと気付くだけなら死ぬ一秒前でもできます。
しかしてどれほどの心を持っているか、ですね。


魂はジャッジだけなのだそうで、意見はしません。してくれません。
要するに良心や内在神のような存在で、特に働きかけることもありません。
ただ、感じることはできるそうです。



宗教的なお話になりますが、この魂というものは生まれ変わるタイミングと、
生まれる場所を選択するだけです。主審のようなものです。

魂は、時間が永遠であることを知っているので焦りません。 
いつかは必ず人は成仏(唯物的に云うなら成物www)するものだそうで。