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中央式太極拳は南京中央国術館副館長【陳冸嶺老師】により編纂された南京中央国術館正宗太極拳
を起源とする、古式総合太極拳です。
気の武術の奥義は、これ即ち 健康長寿の奥義。
今日、太極拳の医学的健康効果は多くの医学論文で実証されてます。
先ずは気を感じる事から始め、自身の免疫力、自然治癒力を高めましょう。

2015年7月2日木曜日

杖術と太極拳 近代~現代への流れ

先のブログでは「神道夢想流杖術と中央式太極拳には関係性がある」と大仰に書きました。


はたして、日本の古武術と太極拳に何の関係が・・・・?



それは、日本に初めて太極拳・八卦掌・形意拳がもたらされたことに関係するのです。
「玄洋社」総帥・頭山満(旧福岡藩士)の息子であり、「全日本杖道連盟」の会長でもあった頭山泉氏が
台湾・国民党政府に王樹金老師の招聘をはたらきかけたのです。
それに応じた蒋介石により文化特使として王樹金老師は派遣され、こうして日本に
中国武術としての「太極拳」がもたらされました。それが1958年のことです。


※玄洋社:1881-1946 旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に
結成された西洋列強に対抗する大アジア主義を抱く政治団体。
玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権利を固守すべし」
輩出した人物として中村天風(日本初のヨーガ行者)がおり、また頭山満は植芝盛平(合気道開祖)や
出口王仁三郎(大本教)らと大陸にも渡っている。
かつて少林寺拳法を創始した宗道臣(中野理男)も居候していたことがあるし、「姿三四郎」のモデルである
西郷四郎も講道館を脱した後、玄洋社の周辺でジャーナリズム活動に身を投じている。
ちなみに「心身統一合気道」の藤平光一(1920~2011)は植芝盛平と中村天風の両者の教えを受けている。
植芝が存命中に合気道十段を許された唯一の人物。




夢想権之助(生没年不詳)を流祖とする「神道夢想流杖術」は旧福岡藩(黒田藩)でよく伝えられ、
明治以降に全国に広められます。
逮捕術の警杖術技は神道夢想流杖術がもととなっています。


1600年。関ヶ原の合戦。宮本武蔵は西軍として宇喜多陣営にて参戦(?)。

1606年。福岡藩初代藩主・黒田長政により福岡城が完成。
1617年ごろ。姫路滞在中の宮本武蔵と夢想権之助が試合したと云われている。
1638年。島原の乱。小倉藩小笠原氏の後見として宮本武蔵、出陣。投石により負傷。
また、この頃、宝蔵院流高田派の流祖・高田又兵衛と試合。
1645年。新免武蔵守 藤原玄信こと宮本武蔵が逝去。

1646年。沢庵宗彭が逝去。当時の代表的禅僧でもあり、また柳生宗矩の求めに応じて「剣禅一如」を説く。
この境地を記した「不動智神妙録」は禅を以て武道の極意を説いた最初の書物であり、
武術から武道への流れを開く端緒のひとつになり、江戸期を含めて後世の日本武道においての影響は大きい。
ちなみに、宮本武蔵との交流は、史実においては確認できていない。

同年 柳生宗矩が逝去。将軍家指南役として剣豪から大名にまで上り詰めた唯一の人物。
父は柳生石舟斎。息子に柳生十兵衛三厳。
平時における新しい兵法思想を展開し、ある意味において「人格形成のための社会教育化」の
発端ともいえる。後世への日本武道への影響は計り知れない。




1840年。アヘン戦争勃発(清国と大英帝国)

1871年(明治4年)廃藩置県。
同年、清国との修好条規を天津で調印(日清通商条約)。

1881年(明治14年)旧福岡藩士らが中心となり「玄洋社」結成。



1882年(明治15年)董海川(とうはいせん)逝去。清朝・紫禁城の宦官で、八卦掌の創始者。
八卦掌の門派は甚だ多く、董海川の元に集まった各地の達人たちに対して、各達人がそれまで学んできた
武術にあわせて教授した点が挙げられる。

ちなみに王樹金老師はひ孫弟子にあたる。


1899年(明治32年)清国で義和団蜂起。
1905年(明治38年)王樹金老師、河北省天津で誕生。
1912年(明治45年/大正元年) 南京で「中華民国臨時政府」が成立。

1928年(昭和3年) 南京中央国術館が設立。

もともと中央式太極拳は「南京中央国術館式太極拳(あるいは双辺太極拳)」として
中華民国政府の命により南京中央国術館(1928~1949)で編纂されました。
西洋列強や日本との戦争により、軍の強化と国民のアイデンティティの拠り所として、
中国武術は「国術」として重視されるようになっていきます。
中国武術の全国的統一組織として、「国術」の研究と優れた武術家の養成のために設立されました。


その系統を「古伝統合型太極拳」とも呼ぶように、楊家太極拳をベースに
他の太極拳や形意拳などの中国武術の粋を統合して完成したものです。
当時の副館長であった陳泮嶺(1892~1967)を中心に著名な武術家が集まって研究された成果です。


1944年(昭和19年)玄洋社総帥・頭山満、逝去。
1946年(昭和21年)日本の敗戦にともない、GHQにより「玄洋社」解散。

その一方で、第二次世界大戦後、大陸の覇権を争う「国共内戦」が勃発。
先の大戦で日本と戦っていた国民党軍は疲弊しており、共産党軍により、
1949年、蒋介石の国民党は台湾に撤退。その時、多くの様々な武術家や文化人も台湾に渡りました。

同年10月、こうして大陸に「中華人民共和国」が建国。
日本では湯川秀樹がノーベル物理学賞を日本人として初めて受賞。

また、同年5月30、31日に発生した東京都公安条例制定反対デモの取締りに警視庁予備隊が
初めて警杖を持って出動し、65名を検束。
警杖は敗戦後の武装解除で丸腰に近い状態になっていた警察官にとって唯一の武器でした。
ただ、GHQの指示で採用されていた新警棒を使わなかったので、後で相当のお叱りを受けたそうです。

1950年(昭和25年)朝鮮戦争勃発。

1952年(昭和27年)日米地位協定締結。
そして、日米の平和条約が発効されたことにより日本の主権が回復。
同年、日華平和条約(日台平和条約)締結。


朝鮮戦争の関係もあり、アメリカが台湾の中華民国政府(蒋介石)を承認・支援し、
1954年(昭和29年)12月に「米華相互防衛条約」を締結。
この頃、世界ツアーで台湾に来ていた米国のヘビー級ボクシング王者「ジョー・ルイス」の
挑戦に応じたところ、ルイスは王樹金老師にパンチの一撃を浴びせたが、
老師が微動だにしないことに驚き、対戦を取りやめたといいます。


1956年(昭和31年)中華人民共和国で「制定拳簡化24式」が制定。
国家体育運動委員会を通じて社会に寄与する健康体操として制定・普及が図られたものであるが、
新生中国の社会主義建設のための、労働意欲・学習意欲向上と労働者・学生の健康福祉を目的にして
各職場や学校で奨励されたものであることを知って学んでいる人は少ないと思われる。

同年、「第一回世界柔道選手権大会」が東京で開催。
その頃日本では既に戦後のGHQ管轄下を脱し、「日本精神を形づくるものだから」という理由で
規制されていた武術・武道も多くの武術家・政治家の働きにより復興していました。
GHQの武道教育禁止に対して小野派一刀流16代目宗家・笹森順三らが
撤廃と伝統武術・武道の復興説得を続け、「日本武道の何たるか」を証明するため、
「今武蔵」とも呼ばれた鹿島神流18代宗家・国井善弥と米国海兵隊銃剣術教官との試合は有名です。


昭和30年当時の「全日本杖道連盟」の会長は頭山泉氏でした。
先にも書きましたが、頭山泉氏は全日本杖道連盟の前身である「大日本杖道会」の会長であり、
玄洋社・頭山満の御子息です。


1956年(昭和31年)「神道夢想流杖術」が「全日本剣道連盟(全剣連)」に加盟。
全剣連は剣道、居合道、杖道を「三道」として普及する方針を打ち出しました。
全剣連への加入については、頭山泉会長は反対でしたが、清水隆次師範の強い希望により実現。
ちょうど入れ替わりに「なぎなた」が全剣連から独立し、「なぎなた連盟」を設立。



そして、
1958年(昭和33年)に国民党・蒋介石の要請を受けた王樹金老師が渡日。
それ以降合計21回来日し、中国武術の教授を行いました。

1960年(昭和35年) 全日本杖道連盟主催の演武大会に特別演武枠として王樹金老師が出席。




1966年(昭和41年) 中華人民共和国で「文革」開始。
武術方面に限って言えば、陳家太極拳の嫡流は獄死します。
その他の武術家も殺されないまでも海外に逃亡したり隠遁したり、多くの文化は壊滅状態になります。

有名な話として、「金魚」の名産地・養殖池まですべて壊すという徹底ぶり。
珍しい金魚の血統やノウハウまで喪失してしまい、世界一の座を自ら降りたことになりますが、
後年日本の技術を逆輸入してそれなりに復興はしているようです。


1969年(昭和44年)植芝盛平、逝去。


1970年(昭和45年)国際剣道連盟設立&第一回世界剣道選手権大会開催。
この時、優勝は日本でしたが、準優勝はなんと中華民国(台湾)。
※「中華民国」の称は1971年まで使われていました。


1972年(昭和47年) 日中国交正常化。
以降、「簡化24式」が日本にもたらされます。

1973年12月。「燃えよ!ドラゴン」が日本で初上映。ブルース・リーは同年7月に逝去していました。
(カンフーブーム到来)

1980年(昭和55年) 「ひらけ!ポンキッキ」で「カンフーレディー」が放送。
作詞:三輪道彦 作曲・編曲:小山田暁、
歌:高田とも子・コスモス。
映像で演武している男性は中国武術研究家の松田隆智(1938~2013)。
女性は子役タレントで歌も担当した高田とも子。

この時、まだ日本では公開されていなかった中国武術の套路を楽曲に合わせた演武映像にて一般公開。

当時、「簡化24式」等により「太極拳は武術から生まれた健康法である」とする認識が一般的であったが、
松田の著書によって種々の太極拳のルーツの一つである「陳家太極拳」が健康法ではなく
武術として台湾において伝承されていることをメディアを通じて明らかにした。


1981年(昭和56年)。王樹金老師、逝去。

1985年(昭和60年)に「国際杖道連盟」と「全日本杖道連盟」を再び立ち上げ。
かつての会長であった頭山泉氏は高齢を理由に会長就任を固辞し、初代会長はあの安部晋太郎氏。
その後、二代目会長は三塚博氏。そして現在は三代目の安部晋三氏となっています。




2012年(平成24年)「第一回中央式太極拳総合演武大会」開催。


2015年(平成27年)「第二十一回西日本古武道大会」開催。
・・・に私が見学に行ったというところで、先のブログに続きます。




少々強引ではございましたが、
「因縁生起」ということで過去から今この現在にまで受け継がれているということを表現するには、
当時の時代背景を無視することもできず、太極拳と杖術(日本武道)に関連するもの、
しかもできるだけ知名度の高い人物、事件、言葉に絞りましたが、
ややこしくなってしまったかもしれません。


江戸初期に興り、福岡藩(黒田藩)で伝えられた夢想権之助の杖術の流れは
かくして「王樹金の太極拳」を日本にもたらし、今に至るのであります。