李老師の知人でもある「丹道」の胡坤壬老師が台湾から大阪に来られていました。
せっかくの機会でもあるので、丹道の講義に参加してきました。胡老師は日本語があまり得意ではなく、
李老師の通訳のもとで授業が進んでいきました。
丹道というのは、道教系仏教ともいうべき道義に基づいて「智慧を拓く道」を本題とします。そのための禅であり気功養生法であります。
智慧は仏教における様々の結果として得られた「悟り」のことで、また般若心経で有名な般若はサンスクリット語の漢語訳で、ほぼ同義です。
「性」「命」「心」「霊」を禅によって修めようというものであり、そして丹というのは心にも体にも効く「薬」であり、それを我が身に宿して練り上げる、
という具合にお考えください。さらに広く見ると世の中に対してのクスリ=文化といえます。
中国では伝統的に「性命双修」ということが言われており、「性」は、性質、本性として、それを養うとは精神性、人間性を磨くことになります。
「命」は、身体の健康です。「性命双修」とは、「性(人格)」にも「命(健康)」にも片寄らず、両方を並行して気功の修練を行っていくことを重要視します。
気功の修練の目的として、「悟り」があります。
※もっと簡単にいえば「心身の養生の道」でその道の先に悟りがありますよ、と。「悟り」なんて書くと大層な感じがしますが、
「自己発見」といいますか、固定観念や感情などを払しょくして真我や宇宙観に到達するということも含んでいると思います。
以下は私の憶測なので読み飛ばし推奨。
悟りを「大層に」「難しく」「考えてしまう」のもある意味、社会世間に「束縛」され「影響」を受けた結果に出た感情と云えます。
抱え込み、がんじがらめになった固定観念の鎖をほどいていく行程かもしれませんね。
座学では道義や概念、要訣などを教えてもらい、実技ではいわゆる座禅を習いました。
座禅といっても、日本のお寺でよくあるような感じではありません。寝ていたら肩をバシっとやられるとかはありません。
修行とイメージするほどのこともなく緩いのですが、その分、自己責任ですね。
みなで座禅をしますが、ちらっとみるとコックリコックリとしている人もいます。
寝てしまってはダメでそういう時は「さっさと寝る」とのこと(笑)。
また、意のよって気だの何だのを導くとか、そういうものでもありません。
まさに「無為」ですね。
太極拳に通じるものもあり、たいへん勉強になりました。