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中央式太極拳は南京中央国術館副館長【陳冸嶺老師】により編纂された南京中央国術館正宗太極拳
を起源とする、古式総合太極拳です。
気の武術の奥義は、これ即ち 健康長寿の奥義。
今日、太極拳の医学的健康効果は多くの医学論文で実証されてます。
先ずは気を感じる事から始め、自身の免疫力、自然治癒力を高めましょう。

2015年7月25日土曜日

感じることと太極拳

我々は日常で「元気」という言葉をよく口にします。
太極拳あるいは「易経」に基づいて考え学べば、それは万物の源であると知ることができ、
「元気」の言葉の意味と大切さを改めて感じるでしょう。


「元気」が衰えることは、あらゆる創造性を失うことと同義です。、
元気を養うことを意識する必要があるでしょう。

「皮膚」の営み


太極拳は感覚を重要視します。
感覚は自分自身のモノで他の誰のものでもありません。

先生は、どれほど言葉や補助を尽くしても、あなたの感覚に取って代わって教えることはできないのです。
どうしても自分でやりとげなければならない壁が出てくるのです。


皮膚感覚というものがあります。

単純に分けて、皮膚一枚の「外」と「内」。
単細胞生物のように、生物としての最小単位を原初より区切って以来のものです。

外を感じ、また内を感じ・・・。
そして陸上生物としての進化の粋、内包された海。
外に限りなく宇宙にまで広がる世界、内に底が見えないほど深い内宇宙。

多くは語りませんが、ここに「太極拳」の奥深さがあります。
天を知り、地を知り、人を知る。
東洋の叡智である「易経」との繋がりも深いことが、より一層の深奥さをもたらしています。


さて、太極拳では、身体の一つの組織や器官が一つの役割を担います。
「五臓六腑」も人間の色々な感情と関わりがあります。
その中では脳ですら、一器官にしか過ぎません。


人間の体が小宇宙として在る、というのはそこまで珍しい考え方ではなく、
太極拳もまた武術・養生法としてのアプローチの一つにすぎません。

逆に、「小宇宙で在る」ようになることで、武術にもなるし養生法にもなる、
ということかもしれません。


「人間」としての自我や自己を沈静化し、本来の生命としての在るべき姿を
自身に向けて「静観」することが大事でしょう。





正しい起こりの姿が乾でもある。



「天を楽しみて命を知る 故に憂えず」(『易経』繋辞上伝)




2015年7月24日金曜日

太極拳はすべてに通じる・・・か?


エー・・・サテ。

朝起きていちばん。
身体がガキガキ。

「年、かな・・・?」

すみません。
昨日のブログでエラソーに書いておりましたが、
ご覧の通りの有様でございます。

夜更かしと筋肉痛がこたえています。
もちろん、今日が休みなのを見越しての事ですが。


夜更けでしたが、遅れて送別会に行った後、二次会で「スポッチャ」に行きました。
いろいろな遊びができる総合アミューズメント施設です。
あまりこういうノリの会合は好きではないのですが、
私は行ったことが無いのでちょっと楽しみでした。


中国で話題になった通称「ローラー皇帝」 御年70余歳
2010年の話なので、今生きてるのかな?


やってみたかったのはもちろん「インラインスケート」。
もちろん滑ったこともありません。
しかし夜更けなので人があまりいません。
コース内は貸し切り状態でゆっくり遊べました。

最初はグルグルと歩くだけでしたが、「太極拳」の重心の取り方や感じ方を駆使し、
ある程度の基本は人に教えてもらったりしまして。
なんとか滑るくらいにはなりました。
ただ、ググッと加速するのはまだちょっと怖いですね。

しかし、これはなかなか楽しいものですねぇ。
インラインスケート、買おうかな?

インラインスケートによるダンスチーム
女性がスイスイ滑っているのは優雅ですね。


いろいろゲーム、スポーツはありますがどれもゆるーい感じで楽しめるのがいいです。

「太鼓の達人」で掌にマメが出来ました。

オートテニスも挑戦。
弾き返すように打つのではなく、やさしく面で捉えるようにしてボールを返す。
なるほど。

ダーツも重心や軸を合わせる。
でも、まともに競技としてやると難しいでしょうね。

アーチェリーだけは難しかった・・・。
番え方、把持の仕方、放ち方が意外に難しい。



他の人をほったらかしてガンシューティングに夢中。

たまにある人銃一体の感覚がたまりませんね(笑)。
・・・・ライフルとはいわない。ハンドガンが欲しい。
ガスガンの扱い方・所作にも興味があるのでやってみたいところです。


ポケバイはエンジンの出力が異様に悪くて
単独ぶっちぎりでビリでした。




バブルサッカーもやりました。
http://www.round1.co.jp/service/spo-cha/bubble.html

とはいえ、最終的に中に人がすっぽりと入って落ちないようにし、
グルグルと転がされる遊びと化しましたが、日常で360度全天周回転なんて
されることがありませんので非常に面白い体験です。
逆さになるとものすごく流動的なGを感じますね。
自分の身体がまるで濡れた布団のように重い。

※イレギュラーで危険な遊び方ですので推奨はしません



もちろんいずれも遊戯の域を出るものではありませんが、
反射神経や運動神経ではない太極拳的感覚を駆使すれば(もちろん力みは無用)
けっこうあれもこれも遊べる程度にはできるものだと実感。






で、身体がビキビキになっているのは何ででしょうね・・・・?(溜息)




2015年7月23日木曜日

今日は「大暑」


※画像借りものです。
獅子噛(しがみ)です。うちの地域の旧バージョン。

泉大津では「鬼熊」だそうで。


20日は夏祭りでした。いわゆる「えべっさんのだんじり」。
勇壮な岸和田のだんじりとは全然異なっておとなしいものですが、
それでも轟音を響かせて道を通る威容は良いものです。
数少ない不良系の若者のハレの場でもあるわけですが、とうぜん神事としての側面もあり、
夏祭りは大きく「祇園祭に由来するもの」と「夏越しの神事に由来するもの」の2つに大別されます。
こちらの地域のものは「祇園系」で疫病除けですね。


だんじりの彫り物は「大坂夏の陣」が多いです。
単に武者が寄り集まっているだけと思っていませんか?
じつは「天王寺口の戦い」「八尾の戦い」といった場所別に
区分があるのです。

下記、参照。

http://blogs.yahoo.co.jp/gkrgd678/folder/1555131.html?m=lc

ここの彫り物はなかなか細かい。
まだまだ木が新しいので落ち着きませんが、時代がついてくると
もっとよくなってくると思います。
ただ、木彫りは昭和初期に比べても概して浅い。
ケチったのか、目もあっさり塗っただけ。

もちろんうちの地域の物も一新した際にかなり浅く、荒くなってしまいました。
もともとは昭和7年の作で、夏の陣と冬の陣の合作。





ちょうど日を同じくして「夏の土用入り」でした。
ただいま土用の真っ最中。
どういうことかわかりますか?
土用は季節の転換期。つまり・・・

・・・・・もう夏が終わろうとしているんですよっ。



旧暦人間しかわからないネタですみません。

なんだかんだで遷移を重ねてきた中央式太極拳なんば教室。病院や美容室などとも違い、「お習い事」としてしまえばなかなか贅沢な世界です。
健康になりたい、強くなりたい、痩せたい、美しくなりたいという前向きな気持ちが起き、条件(経済、健康、家庭環境など)が揃わないと来てもらえない環境です。
今の時代、強くなりたければ総合格闘技かシステマがありますし、健康とステータス性ならヨガ系統でしょう。
ジョギングにフリークライミング、フットサルに自転車、本当にいろいろあります。

そんな中で伝統的太極拳&養生法をチョイスするという・・・!
本当の「ゆっくり」に驚き、型があってないようなもので戸惑い、なぜか立たされる(立禅)ことが多いという。
疑問符がつきながらついてきていただけるおかげさまで成り立っております。

会としてもすべからく「当たり前」の意識を無くさねばなりません。
もちろん、自分も太極拳の練習ができて、さらに教えてもらえるという自身の「当たり前」の脱却も必要ですね。


さて。

心が老いている人は「昔話」ばかりします。
心が若々しい人は「これからの話」をします。


「私が若いころは、もっとできた。」
「昔は楽しかった」


せめて心は若々しくいたいと願うならば、当然、過去の話はしないことです。
そして心は見た目に反映します。

過去は過ぎてしまったこと。二度と戻ってくることはありません。
昔話をする、回想する余力があるなら、そのパワーをこれからのことを考えることに使うのが
若くいるためのコツですね。


そして、「そんな年じゃないから」という言葉。
「そんな年」とは、どんな年でしょうか。

この言葉は、人生の中で言ってはいけない言葉のひとつだと思います。
もちろん「言霊」にも関係しています。
そんな言霊を吐いてしまうと、自分がすでに「老いてしまっている」と
認めることになってしまいます。

本人は他者からの否定を待っているのかもしれません。
「まだ大丈夫」と言ってもらいたいのかもしれません。
しかし、言ってもらおうと欲している時点でもう既に老いているのです。

といって、老いは生老病死というように、自然の摂理。
老いを忌避するわけでもなく、若さに執着するわけでもない。
今の、現在の自分を直視し、自分のスタンスで挑戦してみる智慧の見せ所です。
持ち前の・・・だった体力に頼れば、あるいは過去の経験に頼ってばかりでは
「年だから」と云い訳がでるのです。


人生に余生も老後もありません。
全生です。