今からおよそ80年前、当時の中華民国には「南京中央国術館」という政府による武術・体術の研究機関があり、政府の命を受けた副館長の陳ハン嶺によって「双辺太極拳(※1)」が編纂されました。それは太極拳諸流派や他の拳法を研究し、軍や国民の実用・体育に向けて統合・統一された一套の太極拳でした。今でいうところの「古伝統合型太極拳」の源流でもあります。
第二次大戦後、国民党とともに台湾に渡った陳ハン嶺は、中華民国時代、師兄弟であった王樹金と再会し、技術交流が始まりました。王樹金は陳ハン嶺に太極拳を学びながら、形意拳・八卦掌の大家として意見を出し、陳ハン嶺の「中華国術教材」の完成に寄与しました。その時に学び、王樹金独自の工夫を重ねた「王樹金の太極拳(※2)」が「中央式」の原型となりました。
王樹金は「誠明国術館(現・中華武術国際誠明総会)」を設立して後進の育成に力を注ぐともに、国民党・蒋介石の要請により、文化特使として1958年に初来日。公式に初めて中国武術の教授を行いました(※3)。その時に伝えられた「王樹金の太極拳」を日本では「正宗太極拳(※4)」と広く呼ばれています。
その王樹金の晩年の弟子として李鴻儒が入門しました。王樹金が高齢だったため、多くは兄弟子の王福来(嫡流・誠明太極拳の後継者)に教わりました。修行を終えた李鴻儒は水墨画の風格と筆勢、台湾の易経大学で学んだ理論を太極拳に融合させ、「中央式太極拳」として独自の流派を確立させるに至りました。
李鴻儒老師(1980年代に来日) |
東西南北のすべて、あらゆるものをつなぐ「中央」。また「中央」は五行で言う土気(※5)にあたり、土はすべてを生み支えるもの、そして回帰するものであるもの。心身がどこにも偏らない、中庸の体現としての「中央」。流儀の源流として「南京中央国術館」の「中央」・・・中央式太極拳にはそういった意味が込められています。
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※1・・・当時、陳ハン嶺は特に流儀名を名乗らなかったため、伝授者によって名称がさまざまである。双辺太極拳をはじめ、南京中央国術館式、99式などがある。
※2・・・王樹金も特に名称をなのらなかった。後継者である王福来により「誠明太極拳」と呼称されるようになる。
※3・・。日本からの招聘依頼があった際、蒋介石が陳ハン嶺に相談したところ王樹金の名前があがった。国家代表の武術家として派遣する以上、負けることは許されない。事実、王樹金は国内外で数多の挑戦者を退けている。
※4・・・日本だけの名称である。「正宗」とは「正統なる」「真に正しい」などの意味があり、また王樹金も自称したことはない。1960年当時、中華人共和国と日本の国交はなく、おそらく「大陸(共産党)」の国家制定式に対する国民党の揶揄だと思われる。
「大陸は文化大革命によりあらゆる文化を失ったが台湾にはまだ残っている」ということか?
事実、陳式太極拳の嫡流が獄中死により途絶え、また多くの武術家は隠遁してしまった。
※5・・・東が木気、南が火気、西が金気、北が水気。また、各季節の狭間が土気(土用)にあたる。