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題字 李鴻儒

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太極とは 未だ天地分れざる前、元気、混じて一と為るをいう。

太極拳教室 TAICHI-LESSON

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The Central style Tai Chi method at NAMBA crass room.The tai chi chuan & Qigong descended from GrandMaster Wang Shu Jin.

2015年6月20日土曜日

忠義を守り、国を守り、家族を守り

名前が残っている武将と云うのはもちろん武功もそうなんですが、
「忠義」や「仁義」を大事にすることが伴うと
ものすごく評価が高くなります。

戦国といえば「生き残る」ために主家を裏切るのはそう珍しくないことで
それだけに「義」を重んじることは難しく、また貴ばれたのだと思います。



忠義を守り、武人の誇りを守り、主家を守り、家族を守り抜いた
ひとりの武将を紹介しましょう。
まさに「武士の鑑」。こんな武士が日本にいてたのですね。



「高橋紹運(たかはしじょううん)/高橋鎮種(しげたね)」
1548 ~ 1586


「武士たる者、仁義を守らざるは鳥獣に異ならず候」


戦国時代末期、九州の豊後国(大分県)を本拠にし北部九州を支配した戦国大名・大友家の武将で、
筑前国の御笠郡(今の福岡県の太宰府一帯)を領していました。
世に「義将」として知られ、生涯を大友家に尽くした人物です。
薩摩の島津家に大敗して以来、凋落の一途をたどる大友家を見捨てず、
盟友・立花道雪と共に孤立する筑前で反・大友勢力を向こうに廻し奮戦します。

紹運の最後の戦いである「岩屋城の戦い」は、日本の戦国史に於いて最も苛烈な激戦といわれ、
豊臣秀吉の天下統一にも深い関わりを持ちます。


「岩屋城の戦い」の少し前、盟友であり、大友家の支柱でもあった立花道雪が陣中で病に没します。
それを契機として、天正14年(1586)、薩摩国の島津氏は、中央で勢力を増す豊臣秀吉の九州介入前に
九州制覇を成し遂げる為、北上を開始。その兵力は優に五万。総大将は島津忠長。


「寝てん覚めてん薩摩兵子(さつまへご)は突っ走ることしか頭ん無かぞ」by島津豊久(ドリフターズ)
というように、薩摩の兵士の精強ぶりはある意味異常です。

薩摩の兵はこんな人ばっかりです(笑)。
※島津豊久も関ヶ原の撤退戦時に、同じように身を挺して友軍を逃がしています。


対する最終防衛ラインである岩屋城に篭る紹運の兵力は僅かに763名、誰の目にも勝敗は決していたはず。
「岩屋城の戦い」はこうして始まりました。


一つは、岩屋城の背後に位置する立花山城には長男の統虎(立花宗茂)が籠って居る事。
もう一つは近隣の宝満城に紹運の妻や次男の高橋統増(後の直次)。
岩屋城から避難した女子供が籠って居る事。
そして島津軍にとって高橋紹運が無視できない武将であった事。
おそらく他の武将であれば素通りしていた可能性が高いでしょう。

老人に婦女子を避難させ、籠城に賛成しかねる者と一人っ子の者は退却させました。
家中の将士から離反者は一人も出ず、籠城作戦は始まりました。
およそ五十倍の敵兵を相手に、城兵は紹運の采配の許で一歩も引かず奮戦、昼夜を問わず激戦を展開しました。
その城に篭った僅かな城兵に対して、予想外の損害を受け、焦る島津氏。
再三に渡り紹運に有利な降伏及び和議を勧告しますが、紹運は拒絶します。


「主君が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、
主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。
貴方は島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。
武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」

と降伏勧告をはね除けて九州一の義理高さを見せつけ、半月の間徹底抗戦した末に763人全員が玉砕。
最後の白兵戦は紹運自ら大長刀を持ち十数人を討取ったとあります。


「紹運雄略絶倫、兵をあげて撃ち出し、薩軍破ること数回、殺傷甚だ多し」
と記録されています。

我が身の最期を悟った紹運は、敵の手にかからぬ内に引き上げ高櫓に登りました。
最期まで付き従った武士が館に火を放つかどうか問うと、

「その儀は無用である。首を取らせる事で、義を守って死した事がわかる。
死体が見えなければ、紹運が逃げ落ちた思われるであろう。
武士は屍を晒さぬものと言うが、それは死に場所による。敢えて首を取らせよ。」

そして自刃。享年39歳。
紹運に付き従ってきた将兵に誰一人として逃げ出した者、降伏した者はおらず、
城内に踏み込んできた島津方は凄惨なこの総自決を眼のあたりにして
声をあげることも出来ず、ただ足をすくませたといいます。

紹運の首は島津本陣に運ばれ首実検に饗された。
総大将である島津忠長は敵ながら見事と称賛をおしまず、
最高の軍礼をもって首実検を執り行いました。


この戦いで島津軍は戦死者3000余りという予想外の被害を被りました。
軍の再編成の時間をとられた上に、その後の立花山城戦では長男・立花宗茂の前に城を落とすことが出来ず、
豊臣秀吉の九州征伐軍の到来と共に退却する事となりました。


翌年、九州征伐により島津家を降伏させた秀吉は
「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が九州にいたとは思わなかった」と
大宰府に立ち寄った際に高橋紹運主従の忠孝を称え、
紹運を『乱世の華』と深く彼の死を惜しんだと云われています。




さて、ちょっとだけ出てきた高橋紹運の長男の話です。
盟友・立花道雪の度重なる要請に折れ、長男・統虎(後の宗茂)を養子に出すのですが、
その際、
「道雪殿と父が争うことになったならこの刀で父を討て」と訓戒を示し、
一振りの脇差とともに養子に送り出したといいます。

「乱世の華」紹運の子として生まれ、「雷神」立花道雪の薫陶を受けた
彼こそが後に立花宗茂として、
「その忠義鎮西一、その剛勇また鎮西一」と秀吉に称されています。


また、こんなエピソードもあります。
高橋紹運が妻を娶る事が決まった際、連戦に次ぐ連戦で婚儀が延期に延期を重ねていた時。
この間に結婚相手が疱瘡を患い、容貌が醜くなってしまったと言う事で婚約を破棄する旨を伝えてきたが、

「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、
心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」

この二人から生まれたのが立花宗茂・直次兄弟です。
弟の直次もまた豪勇で知られた猛者です。





ちなみに、子孫のひとりに第92代内閣総理大臣・麻生太郎がいてます。





参考動画。
「戦国無双」シリーズというゲームで、多少登場人物などが異なりますが、
流れを知るにはうってつけかと思います。


00:00~03:30
15:30~ラスト
が、ストーリー部分となります。